九州の味噌蔵で木桶に手を添えて味噌を仕込む職人の手

九州の味噌蔵を訪ねて — 麦と麹が醸す、甘口文化の秘密

前回の記事で、九州の棚田を訪ねました。阿蘇の火山灰土で育った米、急斜面に刻まれた棚田の風景、「森のくまさん」や「にこまる」といった品種への農家たちの愛着。土と水が生む、一粒一粒の豊かさを。

今回はその米が、別の姿に変わる場所を訪ねます。麹菌が働き、時間が経ち、やがて味噌になる。その静かで不思議な営みが続く場所——九州の味噌蔵です。

「なぜ九州の味噌は甘いのか」という問い

旅行者が九州の食卓で一番最初に気づくのは、たいてい味噌汁の甘さです。

東京や大阪で育った人なら、最初の一口で少し戸惑うかもしれません。塩気の中に、麹のやさしい甘みがある。舌にしばらく残る、ふわっとした香り。「こんなに甘い味噌があるのか」と。

九州の味噌が甘い理由は、大きく二つあります。原料と、麹の量です。

まず原料。九州の味噌は「麦味噌」が主流です。米ではなく、大麦の麹を使う。大麦は稲作の裏作として各地で栽培されていた作物で、かつては「米を味噌に回すほどの余裕はないが、麦ならある」という現実から麦味噌が根づいたとも言われています。ところが時代を経るうち、麦麹独特の香りと甘みが九州の人々の口に深く刻まれ、今では「家の味」そのものになりました。

そして麹の量。九州の麦味噌は、一般的に麹の割合が高い。麹が多いほど甘みが増す。熊本のメーカー・ホシサンの「ごていしゅ味噌」が地元で長年愛されているのも、この麹の割合の多さと、阿蘇の伏流水による仕込みが理由のひとつです。

「一麹、二炊き、三仕込み」という格言があります。味噌づくりにおいて、麹の出来が最も大切だという意味です。麹が無事に育ってくれるよう、職人は昼夜を問わず三日間、温度と水分を見守り続ける。それほど、麹は繊細な生き物なのです。

蔵の空気が、味をつくる

九州各地に、今も醸造を続ける老舗の蔵があります。大分のフンドーキン醤油は麦味噌生産量で日本一。熊本には阿蘇の地下水を使う蔵が今も数多く残り、鹿児島では温暖な気候を活かした短期熟成の麦味噌が伝統になっています。

それぞれの蔵に、それぞれの「蔵くせ」があります。

蔵くせとは、その蔵に長年住みついた微生物の集合体のことです。床にも壁にも、柱にも、目に見えない菌が住んでいる。その蔵でしか生まれない菌のバランスが、その蔵にしかない味を生み出す。同じ原料を使っても、隣の蔵とは違う味になる。それが醸造の世界の面白さであり、神秘です。

木桶で仕込んだ味噌が、特別な風味を持つのもこのためです。木の断熱性と保温性が、発酵する微生物にとって居心地の良い環境をつくる。そして何十年も使われた木桶には、無数の菌が住みついている。「木桶を替えると味が変わる」と職人が言うのは、比喩ではありません。

現在、日本で木桶仕込みをされている味噌は、全体のわずか0.3%ほどと言われます。大型のFRP(強化プラスチック)タンクやステンレスタンクへの移行が進んだのは、戦後の高度成長期のこと。コストと効率の観点からは合理的な選択でした。しかし今、その流れに逆らうように、木桶仕込みを守り続ける蔵や、あえて木桶に戻す動きが少しずつ広がっています。

「木桶が使えなくなるということは、本物の木桶仕込みの味噌・醤油・酢・味醂・酒が消えて無くなるということ。それは日本食の基礎調味料の本物が無くなるということ」——そう語る醸造家の言葉が、この国の発酵文化の現在地を照らしています。

水と麦と大豆。それだけの話

味噌の原料は、シンプルです。大豆、麹、塩。麦味噌なら、そこに大麦が加わる。

材料を混ぜて、木桶に詰めて、重石をして、待つ。最低でも数ヶ月、長ければ一年以上。その間に麹菌と乳酸菌と酵母が働き、大豆のたんぱく質が分解され、アミノ酸が生まれ、やがて味噌になる。

人間がやることは、材料を揃えて仕込む準備と、発酵の経過を見守ることだけです。あとは微生物たちがやってくれる。

ここで思い出すのは、前々回の記事で書いた水の話です。熊本の「ごていしゅ味噌」が阿蘇の伏流水を使うのは、水が味噌の成分の約半分を占めるからです。前回訪ねた九州の棚田の水が米を育て、その米が麹になり、湧き水が仕込みに使われる。水→米→麹→味噌という流れの中に、前の記事で触れてきた土地の記憶が全部詰まっている。

九州の甘い味噌の一杯の中には、阿蘇の火山が何万年もかけてつくった土と水の旅が、静かに溶けているのです。

家庭の味が、文化をつくる

かつて九州の各家庭では、自家製の味噌を仕込む習慣がありました。「うちの味噌」を持つことは、当たり前のことでした。

その習慣は今ではほぼ失われましたが、代わりに地元の味噌蔵への愛着が残っています。「うちはずっとフンドーキン」「熊本ならホシサンのごていしゅ」「鹿児島は甘さが違う」——産地と銘柄へのこだわりは、かつての自家製味噌への愛着が形を変えたものかもしれません。

発酵食品は、地域の風土と生活習慣が凝縮されたものです。甘い麦味噌は、九州の温暖な気候と、麦を育ててきた農の歴史と、麹をたっぷり使うことで甘さを引き出してきた知恵の結晶。毎日の味噌汁の一杯の中に、そういった時間の蓄積があると思うと、少しだけ食卓が豊かに感じられませんか。

次回は、九州が誇るもう一つの発酵文化——日本酒と焼酎の世界をお届けします。水と米が醸す、「飲む文化」の深さへと、旅を続けます。

この記事は「発酵の恵み」シリーズの第2回です。
前の記事:[発酵の恵み①] 味噌、醤油、日本酒 — 「醸す」文化が日本の食を作った
次の記事:[発酵の恵み③] 九州の焼酎と日本酒 — 水と米が生む、蒸留と醸造の文化(近日公開)

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